2016年2月8日月曜日

2014年11月13日木曜日

アルプス

昨日アルプス空中散歩のテレビをみた。
マッターホルンの狭い頂上に二人の登山者がいて、ヘリコプタに手を振っている。
見ているほうが怖くなるようなシーンだった。
40代でユングフラウに登ったときは、雲の中で視界ゼロだった。
50代でマッターホルンに登ったときは、晴天で絶景であった。
といっても、観光電車とケーブルカーでの登山だが、アルプス登山は、好天の確率は半分以下という。
ユングフラウに2回登って、いずれも雲海のなかだったという友人もいたし、マッターホルンに惚れ込んで、4回でかけたと言う知人もいる。
今はもうテレビ観光だけの年齢になってしまった。



ユングフラウ

マッターホルン


2014年11月11日火曜日

長楽館

昨夜のテレビ「極上の京都」で長楽館が紹介された。
その昔何かの会合で会食した記憶はあるが、当時は建物の歴史など全く知らなかった。
100年以上前、タバコで財をなした人物の迎賓館としてスタートし、その跡を土手家が買い取って再興したという。
長楽館の建つ東山の一角は、京都のなかでも四季の移り変わりを実感できる風光明媚なエリアで、隣接する円山公園の桜や紅葉を見渡せるだけでなく,清水寺、高台寺、知恩院といった京の名所にも散策をかねて訪ねられる場所だ。
もう一度訪ねたいと思った。
長楽館二階からの展望

2014年11月6日木曜日

野口英世の評価

戦前私の小学生時代は「修身」のお手本のような人物だった野口英世だが、戦後の評価はいまいちである。
ノーベル賞に今一歩だったという評価も一部にはあるが、戦後の学会では評価が低く、医科大学の講義では野口の名前は出てこないという。
彼の多くの研究成果のうち、ミスがいくつか解かってしまったかららしい。
その理由(1)
1911年(明治44年)8月に、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる。
しかし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功したものがいない。
 試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている。
最近のSTAF細胞研究のような問題らしい。
その理由(2)
1918年ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される.
 野口に黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
しかし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。
後年アフリカの研究で、野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている。
彼の研究は光学顕微鏡による時代で、まだウイルスを検出できる電子顕微鏡のない時代だったから、研究ミスも仕方が無かったのだろう。
1928年1月2日 - 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院するが、回復して退院。(結果的には、このときは黄熱病ではなかった。)
5月13日 - 再度同様の症状を発症し、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。野口ワクチンを使用するが回復せず、5月21日 - 昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。
野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)
渡辺淳一は、大学の講義で野口の名前がでなかったことに疑問を感じ、後に野口の伝記小説[遠き落日」をかき、野口英世の生涯をえがいた。
偉人としての野口英世ではなく「人間・野口英世」の内面にせまった。多くの伝記で取り上げることが憚れていた野口の研究ミスや借金癖や浪費癖などの否定的な側面も臆さず描き出し、かれの評価の再確認を行っている。

研究室の野口英世
かれの肖像が1000円札に採用されたのは、評価が低いというこただろう。他の理由には、もじゃもじゃ頭の髪の毛が偽造されにくいということがあげられたそうだ。
今日のテレビでは、野口の生まれ故郷の福島県の猪苗代町が、野口英世の縁で、ガーナ共和国の東京オリンピック時〔2020年)のキャンプ地に選ばれたことを伝えていた。
外国での評価のほうが高いのかもしれない。

2014年11月4日火曜日

吉良上野介と赤馬

昨日のテレビで、吉良上野介の領有地だった吉良町の紹介があった。
忠臣蔵の「悪役」として有名な上野介の評価は芳しくないが、領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、地元では慕われていると言われてきた。

吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされる。
(しかし、吉良家のような旗本は、一部の例外を除けば参勤交代がない定府であり、江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的である。そのため、義央も領地を殆ど訪れた形跡はなく、領民に接する機会は無かったと思われる。黄金堤も、元禄よりも前に作られていたことが判明しているという.)

2014年11月1日土曜日

宇宙事故の続発

1)米バージニア(Virginia)州ワロップス島(Wallops Island)で10月28日、国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)に物資を送る米宇宙企業オービタル・サイエンシズ(Orbital Sciences)の無人補給機「シグナス(Cygnus)」を載せたロケットが、打ち上げ6秒後に爆発した。
2)米ヴァージン・ギャラクティックの宇宙旅客機「SpaceShipTwo」が10月31日(現地時間)、米カルフォルニア州でのテスト飛行中に墜落し、パイロット2名のうち1名が命を落とした。もう1名はパラシュートを使って脱出し、現地の病院で手当を受けているという。
アメリカ!どうした?

2014年10月25日土曜日

行動経済学と二宮金次郎

今日は北九州大学神山教授の「行動経済学」の話を聞いた。
経済は勘定ではなく、感情で動いていると考える学問だという。
人間は脳の二つの基本システム(感情と理性)の「せめぎあい」から行動する。
理性をベースとした社会規範と、感情をベースとした市場規範のバランスで経済活動は行われているが、心理学の知見や脳科学実験などを取り入れて、経済の動きを解明する。
具体的な心理事例としては次のような断片的な紹介があった。
事例1:アンカリング
  事前に知らされた情報に惑わされる。その数値より、少ない数値だと安いという心理がはたらく。
事例2:利益分配
  8:2では絶対反対だが、6:4なら妥協する。(統計的事例)
事例3:決断の環境
  直接の行動や対話では感情が強く働くが、メールなどでの間接的対話では理性が強くなる。
事例4:現状維持優先
  勝ちより負け、利益より損失のほうが心理的インパクトが大きい。損失の少ないほうを選択する。
事例5:過去・歴史の後付
  勝者側の後付説明が多く、そのアンカリングに流されやすいが、敗者側の事実や心理も解明する必要がある。
昨日たまたま二宮金次郎のテレビ番組をみた。彼の道徳論だけが世の中に流布しているが、農村改革業績には、農民心理を巧みに取り入れた報徳の制度があった。
桜町改革の報徳生活は「勤労、分度、推譲」の三原則を基本としたが、5年の期限つきで無税のアンカリングを与えた。
【勤労】は生活の基本であり自助努力の大原則だが、同時に知恵を働かせて労働を効率化し、社会に役立つ成果を生み出すという自覚と意欲を重視している。
【分度】は経済的には、収入の枠内で一定の余剰を残しながら支出を図る生活。経営の確立、計画経済の基本だが、この余剰が、明日の、来年のそして未来の生活、生産の発展と永安のための基礎資源となる希望をもたせた。
【推譲】は、分度生活の中から生み出した余剰、余力の一部を、各人が分に応じて拠出する。これが報徳資金になり、相互扶助、公共資本あるいは弱者、困窮者救済に宛てられ、家政再建、町村復興、国づくりに拡がっていった。
尊徳は桜町領復興に当たり、小田原の田畑家屋敷、家財を全て売り払い、それを仕法の資金として推譲したという。
日本は明治維新以降、欧米の合理主義経済を吸収したが、偏重して利益第一主義を推し進め、「大量生産、大量消費、大量廃棄」を生み、「モラルよりモノ・金」を優先させることになり、多くの問題(資源の浪費、食料自給率の低下、環境破壊、家庭・地域の軽視、企業の犯罪等)を発生させることになっている。
市場規範一辺倒もだめ、社会規範一辺倒でもだめ、両者がバランスよく一体となった社会でなければならない。
この一元化を説いた二宮尊徳の思想が再評価され、行動経済学として発展する機運が高まっている。