明治時代中期の古地図に、極楽寺の名前が今の天神地区に記載されている。その近くに勝立寺の名前もあり、こちらは現存している。
極楽寺は浄土宗で名島あった寺だが、黒田長政が福岡城を築いた慶長6年に名島からここに移し、その時の住持天与上人をこの寺の開山とした。
二代藩主忠之の妹が亡くなった時はこの寺に位牌を安置して、寺座50石を寄付したという。
明治中期までは、寺内は墓地をふくめて1300余坪の広さだったが、明治末期の電車開通で敷地は半減した。
戦災のあとに仮の寺院が建てられたが、戦後の再開発の時期に寺は南区若久に移転し、その跡地に建ったのがショッパーズブラザ・ダイエイとマツヤレディスである。
若久の寺