2014年11月6日木曜日

野口英世の評価

戦前私の小学生時代は「修身」のお手本のような人物だった野口英世だが、戦後の評価はいまいちである。
ノーベル賞に今一歩だったという評価も一部にはあるが、戦後の学会では評価が低く、医科大学の講義では野口の名前は出てこないという。
彼の多くの研究成果のうち、ミスがいくつか解かってしまったかららしい。
その理由(1)
1911年(明治44年)8月に、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる。
しかし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功したものがいない。
 試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている。
最近のSTAF細胞研究のような問題らしい。
その理由(2)
1918年ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される.
 野口に黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
しかし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。
後年アフリカの研究で、野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている。
彼の研究は光学顕微鏡による時代で、まだウイルスを検出できる電子顕微鏡のない時代だったから、研究ミスも仕方が無かったのだろう。
1928年1月2日 - 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院するが、回復して退院。(結果的には、このときは黄熱病ではなかった。)
5月13日 - 再度同様の症状を発症し、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。野口ワクチンを使用するが回復せず、5月21日 - 昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。
野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)
渡辺淳一は、大学の講義で野口の名前がでなかったことに疑問を感じ、後に野口の伝記小説[遠き落日」をかき、野口英世の生涯をえがいた。
偉人としての野口英世ではなく「人間・野口英世」の内面にせまった。多くの伝記で取り上げることが憚れていた野口の研究ミスや借金癖や浪費癖などの否定的な側面も臆さず描き出し、かれの評価の再確認を行っている。

研究室の野口英世
かれの肖像が1000円札に採用されたのは、評価が低いというこただろう。他の理由には、もじゃもじゃ頭の髪の毛が偽造されにくいということがあげられたそうだ。
今日のテレビでは、野口の生まれ故郷の福島県の猪苗代町が、野口英世の縁で、ガーナ共和国の東京オリンピック時〔2020年)のキャンプ地に選ばれたことを伝えていた。
外国での評価のほうが高いのかもしれない。

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