2013年2月25日月曜日

生活館

今日はじめて三苫の生活館に家内をつれていった。
四輪の手押し車で歩行が楽になるというので、2000円弱のものを購入した。同時に椅子と電気ジャーも購入。新品同様の中古品だから割安であった。しかし安物買いの何やらで、失敗しないように注意しないと。

2013年2月24日日曜日

探し物

昨年末にCG用のペンタブレットを購入し、数回使用した。
年末の引越し荷物にいれたのは記憶しているが、忙しくて使用していなかった。
ようやく落ち着いてきて、再度使ってみたいと思ったが、タブレット本体はあるのに、ペンのほうが見当たらない。
一緒にしていたと思うが、どこかに仕舞い込んでいるらしい。
ここ2日間探したがだめだ。諦めが肝心で、追加購入を決心。
息子からは古い本を処分したいと言ってきたが、だめと返事した。
諦めが肝心なのだが、タイミングが悪かった。

2013年2月21日木曜日

真手(までい)ライフ

福島県・飯舘村の菅野村長 が提唱する「までいライフ」。
真手 」という漢字 をあてるようだ。東北弁らしい。
身近な行動としては
「 帰宅したら、真手に手を洗い、真手にうがいする。 」
「 ご飯は最後の一粒まで、真手に食べる。 」
「 物を真手に扱う。」
など。
「真手にして(節約して)、お金をためる。」のも大事かな。

2013年2月18日月曜日

終活

就活とくらべて、終活の話はスローライフの範疇だ。
福岡市内で、終活のフェアーが行われたそうだが、葬儀や死亡保険の業者が主催したらしい。
中西さんは去年お姉さんの死亡までの1年間をCG作品で表現されていた。こんな芸術的な感覚で終わりをとげるのは最高である。
ただ大勢をまねいて生前葬を行うのには、行き過ぎである。
自己流の静かな家族葬儀の形態を計画しておきたい。
1)短期間の闘病で死亡すること。
2)連絡先は、親類、安川、九工大、九産大、東サロンの範囲
3)斎場は平和会館or香栄社(東)orあおやぎ?:一光寺 浄土宗
4)展示用遺作品を準備
5)法事は一周忌まで
6)安川育英会に葬儀謝礼として百万円を寄贈する。
  (80歳まで育英会の委員をしていた縁)
などなどを計画のこと。

2013年2月13日水曜日

確定申告

毎年1月中旬から下旬に確定申告の用紙が税務署から郵送されてくる。しかし今年は2月中旬になっても郵送されてこない。
来なければ出さなくてもいいのじゃない?と家内は言うが、そうはいかない。
今日税務署まで用紙をもらいに出かけたが、簡単にくれた。郵送ミスなど多いらしい。
環付用の申請で、大勢の人がもう押しかけていた。

2013年2月11日月曜日

香椎宮と孔子廟

筑前名所図会には香椎宮の記事のページに孔子廟の図がある。
香椎宮の境内にあるのではなく、貝原益軒が香椎宮や大宰府宮は廟であることを記述しているので、奥村玉蘭が廟の例として描いているらしい。
下関の赤間宮とよく似た構造であるが、佐賀県の多久にも孔子廟があるようだ。しかし筑前にはあまり見かけないので、玉蘭はどこを見て描いたのだろうか?
中矢さん経由で香椎宮に詳しい人に調べてもらったが不明であった。
玉蘭は肥前藩にはでかけていないので、お伊勢参りのときに下関の赤間宮に参拝した時の印象で描いたのであろう。

2013年2月3日日曜日

御島

香椎宮の参道を海の方にすすむと、海中に小さな御島と鳥居がある。海中にある御島神社の鳥居は近年のものらしく、下の奥村玉蘭の江戸時代の筑前名所図会には描かれていない。この絵では浜側には白砂部分と岩場の部分があった様子がわかる。ただし香椎川の存在がはっきりしない。
またこの絵の一の鳥居は参道にあるものか、今のイオンの前の道路沿いにあるものか、確認してみたい。

島と言うよりは岩場の集合体で、神社も祠と言ったほうがよい。
島の全景も干潮の程度によって大分変化する。

2013年2月1日金曜日

名島城跡の展望台

名島城の天守閣があった山頂に15mの展望台を作る計画がおこり、反対意見が出て、4.7mの展望台に縮小されたのは2年前である。
その後の計画進行は話題にならず,ネット検索しても見当たらないので、まだ未完成のようだ。
妙見通りからの遠望では平たい屋根だけが見えるが、展望台ではなさそうだ。こんな屋根下の説明広場のようだ。
気候が良くなったら早速登ってみたいものだ。
計画段階のCG画像をネットで見つけたが、展望台のイメージがはっきりしない。
2005年に登ったときは昔の天守閣の石垣の一部がのこっていた。

立花山の方向にはもう高いビルが沢山立ち並んでいた。
人工島のほうもだいぶ充実してきた。

縦割り行政

昨日は城浜団地から名島に向けて走った。
この地域の埋め立てと、みなと百年公園地区の埋め立てとは、時代が異なるので直行路がない。
また香椎浜団地に行こうとしたが、やはり最短車道は通行止めで、高速道路下まで戻らなければならない。
埋め立て計画と都市計画が縦割り行政で連携されていなかったことが証明されている。