東京オリンピック50年でテレビ番組が多いが、残念なが東京まで出かけて観戦する余裕が当時はなかった。
テレビやラジオで見聞しただけで、あとで会社の幹部が観戦して撮影してこられた8ミリ映画をみなで見せてもらったたりした。
実行委員会の委員長だった安川第五郎氏の開会式のスピーチを、ご本人は完全録音をもらっていないということだったので、私がソニーの録音テープで全部録音していたものを届けて、喜ばれたことが唯一の直接関係した貢献であった。
当時のスポーツ雑誌特集号2冊を買って保存している。これを読み直してみると、日本がオリンピックに初めて参加した1912年のストックホルム大会(第5回)の記事に感銘をうけた。
オリンピックを世界的な運動にするため、クーベルタンはアジヤにも参加をよびかけた。日本の文部省はさっぱり関心を見せないので、日本のスポーツ教育推進を志していた嘉納治五郎がIOC委員となり、また大日本体育協会をつくって、資金集めに奔走したり、国内競技の予選会を行ったりした。
結局短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2選手が参加したが、世界レベルとの差が大きく、三島選手は100m、200mで予選落ち、400m準決勝で棄権、金栗選手は18Kmで落伍の結果におわった。
このときの参加国は27ヶ国にすぎなかったが、第11回のベルリン大会では49ヶ国の参加と、漸増していった。
日本でもこの参加以後世界のスポーツへの関心がたかまり、(第6回ベルリン大会は世界1次大戦で流れたが、)第7回アントワープ大会には15人の選手を派遣をするようになった。
嘉納治五郎といえば講道館の柔道だけを思い出すが、日本のスポーツ振興の推進者だったことを再認識した。
2014年10月14日火曜日
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