明治時代中期の古地図に、極楽寺の名前が今の天神地区に記載されている。その近くに勝立寺の名前もあり、こちらは現存している。
極楽寺は浄土宗で名島あった寺だが、黒田長政が福岡城を築いた慶長6年に名島からここに移し、その時の住持天与上人をこの寺の開山とした。
二代藩主忠之の妹が亡くなった時はこの寺に位牌を安置して、寺座50石を寄付したという。
明治中期までは、寺内は墓地をふくめて1300余坪の広さだったが、明治末期の電車開通で敷地は半減した。
戦災のあとに仮の寺院が建てられたが、戦後の再開発の時期に寺は南区若久に移転し、その跡地に建ったのがショッパーズブラザ・ダイエイとマツヤレディスである。
若久の寺
2014年9月19日金曜日
2014年8月8日金曜日
信長の負け戦
台風と大雨が続く気象の季節で、信長の負け戦が思い出される。
信長が斉藤龍興に木曽川河野島で大敗を喫する。(永禄九年(1566)閏8月8日)
永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで大敵今川義元を討ち取って勢いに乗った織田信長は、次なる攻撃目標を美濃の斎藤氏に定める。
信長は居城を清洲城(愛知県清須市)から小牧山(同小牧市)へ移し、同五年に信長と対立して斎藤氏に通じていた織田信清の犬山城(同犬山市)を攻め落とす。
同八年には東美濃の宇留摩(鵜沼)・猿啄両城を木下秀吉・河尻秀隆らの活躍で攻略し、続いて堂洞・加治田・関の各城も調略や力攻めで奪う。
それまで信長は斎藤氏の前に苦戦していたが、龍興の代になると求心力が次第に低下、前年には竹中半兵衛重治が稲葉山城を一時乗っ取る事件も起き、麾下の国人衆は龍興に見切りを付ける者が出始めてた。
永禄九年の八月二十九日、信長は木曽川を渡って美濃へ侵入、河野島(岐阜県岐南町周辺)へ兵を進めると、龍興も稲葉山城を出て境川を隔てて対峙した。
ところが激しい風雨に見舞われて川が増水し、木曽川を背にした信長勢は戦うことも退くこともままならない状態となり、ようやく風雨が収まって水が引き始めた。
この日、斎藤勢が総攻撃を仕掛けました。信長勢は果敢に応戦したが、背後に木曽川があるため軍の後退が出来ず苦戦、一部の兵は兵具を捨てて木曽川へ入り逃げようとしたが、渡り切れずに流されて溺死する者が続出、前代未聞の大敗を喫した。
信長が斉藤龍興に木曽川河野島で大敗を喫する。(永禄九年(1566)閏8月8日)
永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで大敵今川義元を討ち取って勢いに乗った織田信長は、次なる攻撃目標を美濃の斎藤氏に定める。
信長は居城を清洲城(愛知県清須市)から小牧山(同小牧市)へ移し、同五年に信長と対立して斎藤氏に通じていた織田信清の犬山城(同犬山市)を攻め落とす。
同八年には東美濃の宇留摩(鵜沼)・猿啄両城を木下秀吉・河尻秀隆らの活躍で攻略し、続いて堂洞・加治田・関の各城も調略や力攻めで奪う。
それまで信長は斎藤氏の前に苦戦していたが、龍興の代になると求心力が次第に低下、前年には竹中半兵衛重治が稲葉山城を一時乗っ取る事件も起き、麾下の国人衆は龍興に見切りを付ける者が出始めてた。
永禄九年の八月二十九日、信長は木曽川を渡って美濃へ侵入、河野島(岐阜県岐南町周辺)へ兵を進めると、龍興も稲葉山城を出て境川を隔てて対峙した。
ところが激しい風雨に見舞われて川が増水し、木曽川を背にした信長勢は戦うことも退くこともままならない状態となり、ようやく風雨が収まって水が引き始めた。
この日、斎藤勢が総攻撃を仕掛けました。信長勢は果敢に応戦したが、背後に木曽川があるため軍の後退が出来ず苦戦、一部の兵は兵具を捨てて木曽川へ入り逃げようとしたが、渡り切れずに流されて溺死する者が続出、前代未聞の大敗を喫した。
2014年7月26日土曜日
クレーマー・クレーマー
有名な映画だが、子供主役のお涙頂戴のドラマと思っていた。
昨日はじめて全巻をみて、中身の濃いのに感心した。
男性の仕事がらみの対話、女性の空しい心情、裁判での弁護士たちの論点など。
家庭内の調理場面やWC場面などの伏線もよく出来ていた。
とくにラストシーンが見事な出来だった。
昨日はじめて全巻をみて、中身の濃いのに感心した。
男性の仕事がらみの対話、女性の空しい心情、裁判での弁護士たちの論点など。
家庭内の調理場面やWC場面などの伏線もよく出来ていた。
とくにラストシーンが見事な出来だった。
2014年5月30日金曜日
与力
集団自衛権の論議がさかんになっている。紛争の事例を分類して整理し、公文書化しておくことが行われている。
その中で「駆けつけ警護」の用語があり、解説 では「PKOで活動中の自衛隊が、他国軍やNGOなどの民間人が危険にさらされた場所に駆けつけ、武器を使って助けること」。という。
その昔、与力という言葉は江戸時代の町奉行の役人の名前であったが、その語源は「寄騎」という言葉で、戦が起こりそうな場所に寄り集まってきた武士集団の名称で、駆けつけ部隊のことであったという。
戦の歴史は繰り返すものだ。
その中で「駆けつけ警護」の用語があり、解説 では「PKOで活動中の自衛隊が、他国軍やNGOなどの民間人が危険にさらされた場所に駆けつけ、武器を使って助けること」。という。
その昔、与力という言葉は江戸時代の町奉行の役人の名前であったが、その語源は「寄騎」という言葉で、戦が起こりそうな場所に寄り集まってきた武士集団の名称で、駆けつけ部隊のことであったという。
戦の歴史は繰り返すものだ。
2014年5月26日月曜日
1次世界大戦のモラル
先週見た映画は1937(昭和11)年の 仏映画 モノクロ DVD:113分
「大いなる幻影」
監督;ジャン・ルノワール (印象派の巨匠オーギュスト・ルノワールの次男で「どん底」「獣人」「河」などの名作がある)
出演;ジャン・ギャバン/ピエール・フレネー/エリック・V・シュトロハイム
第一次世界大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となった、さまざまな階級の人間が集う収容所での物語。
2次世界大戦ではヒットラーによる殺戮が横行するが、1次世界大戦では、戦争がまだ紳士的であった時代の残り香が漂うヒューマンドラマの傑作だ。
やがて脱走計画が企てられるが・・・・・最後はかろうじてスイス領に逃げこもんだ兵士を、幸運なやつらだと,ドイツ兵は射撃しない。
主演格のジャン・ギャバンも未だ若く、33年あたりから注目され始め、35年の「地の果てを行く」で人気が出始め、「どん底」、「望郷」、そしてこの「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露しスターとなった。
「大いなる幻影」
監督;ジャン・ルノワール (印象派の巨匠オーギュスト・ルノワールの次男で「どん底」「獣人」「河」などの名作がある)
出演;ジャン・ギャバン/ピエール・フレネー/エリック・V・シュトロハイム
第一次世界大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となった、さまざまな階級の人間が集う収容所での物語。
2次世界大戦ではヒットラーによる殺戮が横行するが、1次世界大戦では、戦争がまだ紳士的であった時代の残り香が漂うヒューマンドラマの傑作だ。
やがて脱走計画が企てられるが・・・・・最後はかろうじてスイス領に逃げこもんだ兵士を、幸運なやつらだと,ドイツ兵は射撃しない。
主演格のジャン・ギャバンも未だ若く、33年あたりから注目され始め、35年の「地の果てを行く」で人気が出始め、「どん底」、「望郷」、そしてこの「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露しスターとなった。
他にも馬具出土?
24日の玄界塾で船原古墳付近から出土した馬具について、朝日新聞社の馬郡シニア記者の講演会がひらかれた。
内容は新聞やテレビで報道されたことの域をでなかった。
質疑のなかで、古老が昭和28年ころ 古賀市花見地区の工事現場で馬具が発見されたことがあるという話をされた。
当時は調査態勢が不十分で、現物も記録も残っていないようだということである。
古墳調査の資料が公開されているのは昭和45~50年代からで、その20年前は残念ながら闇のなかだ。
内容は新聞やテレビで報道されたことの域をでなかった。
質疑のなかで、古老が昭和28年ころ 古賀市花見地区の工事現場で馬具が発見されたことがあるという話をされた。
当時は調査態勢が不十分で、現物も記録も残っていないようだということである。
古墳調査の資料が公開されているのは昭和45~50年代からで、その20年前は残念ながら闇のなかだ。
2014年5月20日火曜日
安岡章太郎
昨日のラジオで安岡章太郎の[流離譚]という小説の紹介を聞いた。
彼の先祖である幕末の安岡文助に嘉助、覚之助、道太郎という3人の子どもがおり、嘉助は土佐勤王党に参加、土佐藩参政、吉田東洋を斬り、脱藩上京。吉村寅太郎の天誅組に参加、十津川で敗れ、捕えられて京都で打ち首になる。
覚之助は嘉助と同じく土佐勤王党に入るが、本家の養子になり、戊辰戦争、会津攻めに参加して、会津城下で流れ弾に当たり、戦死する。
道太郎は幕末を生き延び、植木枝盛たちと自由民権運動に参加し、大衆的な運動を担う。
本家の覚之助の子孫が、維新後土佐を離れて東北に移住した理由を、この安岡家の子孫にあたる安岡章太郎氏が時代背景を追いながら調べていくという内容になっている。
歴史小説というよりは、ノンフィクションといっていいと思う。
数年前のNHK大河でラマ「龍馬伝」を興味を持ってみていたが、安岡家と坂本龍馬、板垣退助、武市半平太、など、幕末明治の有名人との関わりがあったとはしらなかった。。
彼の先祖である幕末の安岡文助に嘉助、覚之助、道太郎という3人の子どもがおり、嘉助は土佐勤王党に参加、土佐藩参政、吉田東洋を斬り、脱藩上京。吉村寅太郎の天誅組に参加、十津川で敗れ、捕えられて京都で打ち首になる。
覚之助は嘉助と同じく土佐勤王党に入るが、本家の養子になり、戊辰戦争、会津攻めに参加して、会津城下で流れ弾に当たり、戦死する。
道太郎は幕末を生き延び、植木枝盛たちと自由民権運動に参加し、大衆的な運動を担う。
本家の覚之助の子孫が、維新後土佐を離れて東北に移住した理由を、この安岡家の子孫にあたる安岡章太郎氏が時代背景を追いながら調べていくという内容になっている。
歴史小説というよりは、ノンフィクションといっていいと思う。
数年前のNHK大河でラマ「龍馬伝」を興味を持ってみていたが、安岡家と坂本龍馬、板垣退助、武市半平太、など、幕末明治の有名人との関わりがあったとはしらなかった。。
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