2014年5月30日金曜日

与力

集団自衛権の論議がさかんになっている。紛争の事例を分類して整理し、公文書化しておくことが行われている。
その中で「駆けつけ警護」の用語があり、解説 では「PKOで活動中の自衛隊が、他国軍やNGOなどの民間人が危険にさらされた場所に駆けつけ、武器を使って助けること」。という。
その昔、与力という言葉は江戸時代の町奉行の役人の名前であったが、その語源は「寄騎」という言葉で、戦が起こりそうな場所に寄り集まってきた武士集団の名称で、駆けつけ部隊のことであったという。
戦の歴史は繰り返すものだ。

2014年5月26日月曜日

1次世界大戦のモラル

先週見た映画は1937(昭和11)年の 仏映画 モノクロ DVD:113分  
「大いなる幻影」
   監督;ジャン・ルノワール     (印象派の巨匠オーギュスト・ルノワールの次男で「どん底」「獣人」「河」などの名作がある)
  出演;ジャン・ギャバン/ピエール・フレネー/エリック・V・シュトロハイム 

第一次世界大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となった、さまざまな階級の人間が集う収容所での物語。
2次世界大戦ではヒットラーによる殺戮が横行するが、1次世界大戦では、戦争がまだ紳士的であった時代の残り香が漂うヒューマンドラマの傑作だ。
やがて脱走計画が企てられるが・・・・・最後はかろうじてスイス領に逃げこもんだ兵士を、幸運なやつらだと,ドイツ兵は射撃しない。

主演格のジャン・ギャバンも未だ若く、33年あたりから注目され始め、35年の「地の果てを行く」で人気が出始め、「どん底」、「望郷」、そしてこの「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露しスターとなった。

他にも馬具出土?

24日の玄界塾で船原古墳付近から出土した馬具について、朝日新聞社の馬郡シニア記者の講演会がひらかれた。
内容は新聞やテレビで報道されたことの域をでなかった。
質疑のなかで、古老が昭和28年ころ 古賀市花見地区の工事現場で馬具が発見されたことがあるという話をされた。
当時は調査態勢が不十分で、現物も記録も残っていないようだということである。
古墳調査の資料が公開されているのは昭和45~50年代からで、その20年前は残念ながら闇のなかだ。

2014年5月20日火曜日

安岡章太郎

 昨日のラジオで安岡章太郎の[流離譚]という小説の紹介を聞いた。

 彼の先祖である幕末の安岡文助に嘉助、覚之助、道太郎という3人の子どもがおり、嘉助は土佐勤王党に参加、土佐藩参政、吉田東洋を斬り、脱藩上京。吉村寅太郎の天誅組に参加、十津川で敗れ、捕えられて京都で打ち首になる。
 覚之助は嘉助と同じく土佐勤王党に入るが、本家の養子になり、戊辰戦争、会津攻めに参加して、会津城下で流れ弾に当たり、戦死する。
 道太郎は幕末を生き延び、植木枝盛たちと自由民権運動に参加し、大衆的な運動を担う。
 本家の覚之助の子孫が、維新後土佐を離れて東北に移住した理由を、この安岡家の子孫にあたる安岡章太郎氏が時代背景を追いながら調べていくという内容になっている。
 歴史小説というよりは、ノンフィクションといっていいと思う。
数年前のNHK大河でラマ「龍馬伝」を興味を持ってみていたが、安岡家と坂本龍馬、板垣退助、武市半平太、など、幕末明治の有名人との関わりがあったとはしらなかった。。  

2014年5月15日木曜日

火山災害

昨日は池上彰の解説で、火山災害の3時間番組が放映された。

ポンペイ遺跡は昔、見学したことがあるので、その復習のつもりで見ていたが、ヴェスビオ火山の大噴火で、その南のポンペイだけでなく、西のへリクラネイムや北のソンマレスチアーム?など埋没していた都市が最近発掘されていることを知って驚いた。

大噴火だから周辺を探せばまだ他にも埋没している都市が存在している可能性があるだろうという。

火山国日本人はソレントやアマルフィなど絶景の観光地だけを堪能しては居れない。

九州は北と南の島が、阿蘇の大噴火でつながったという。
今回の熊本地震で、おおきな災害が発生しているが、その産物で、古代遺跡の発見にでもつながれば、せめてもの幸いであるのだが。

2014年5月12日月曜日

サヘル・ローズ

今日の「ようこそ先輩」で、母校のこども達に、マイナスをプラスに代える発想を教えていたタレントのサヘル。その人生は波乱万丈だった。
イラン西部、クルディスタンにある小さな町に生まれる。幼少時代の微かな記憶に、よその家の養子になる話が出たものの、結局実現せずそのまま両親と共に暮らすことになったという出来事がある。
イラン・イラク戦争で生家が空爆に遭い、両親と10人いた兄姉をすべて亡くし、倒壊した家の瓦礫の中から4日後にひとり救助された。その後、孤児になり暫く孤児院で暮らす。このため本当の出生名は明らかではなく、現在の本名は後につけられたものである。また1985年生まれというのも後に付けられた誕生年であり、実際のところは86年,84年かもしれないという。
やがて、当時大学生でボランティアの救助活動を行って瓦礫の中からサヘルを発見したフローラ・ジャスミンが、孤児院に収容されたサヘルを見舞った際に幼いサヘルが自分を「お母さん」と呼び慕ったことから、サヘルを引き取ることを決意する。しかし非常に高い身分であったフローラの実家が、孤児であるサヘルを養育することを「家柄に傷がつく」として猛反対、やがて経済援助を打ち切られた。
その後2人は、フローラのフィアンセであったイラン人男性を頼って8歳のとき日本に移住した。しかしその男性とフローラの生活が上手くいかずに別れると、フローラに職が無かったため赤貧の生活を余儀なくされた。通っていた小学校の給食しか食べるものがなかった時期に、フローラは給食の調理師と親しくなり生活のサポートを受け、次いでサヘルは校長による補習授業で日本語を学ぶ。小学校、中学校時代にはいじめも受けている。
彼女の講義をうけた後輩の生徒も、韓国人でいじめられた子や父が家出して苦労した子などが、プラス思考の事例を紹介していた。

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう) 黒田如水一族は目薬売りで蓄財したという。幕末・明治時代にも目薬で実業界にでた人物がいたという話をきのうラジオで聞いた。岸田 吟香(きしだ ぎんこう)。1833年6月15日「(天保4年旧暦4月28日)生まれ。 美作国久米北条郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」(せいきすい)を販売するなどして、薬業界の大立者としても知られるようになる。中国大陸では薬売りに情報収集を依頼して薬は無料で提供していたという。黒田一族と同じ手法を用いていたようだ。若い頃は日本の新聞記者の奔りで、東京日日新聞の主筆をつとめた経験があり、情報の重要さを知った男だったようだ。晩年は教育事業家としても貢献したようだ。明治38年(1905年)6月7日没。

2014年5月7日水曜日

行く春や

松尾芭蕉の俳諧紀行文、「奥の細道」『旅立ち』の矢立ての句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はちょうど今頃の季節の句だが、その句解は素人には難解な句だ。鳥と魚の組み合わせを古い漢詩や和歌との関連で解釈する人も多いようだ。いろんな説があるが、今日次のようなやや納得のいく解釈をみつけた。 「奥の細道」の最初の句だが、矢立ては芭蕉は一応千住の送別会で、「鮎の子の白魚送る別れかな」と言う秀句を捻出した。けれども半年に及ぶ「奥の細道」の旅がようやく終焉しようとした時、最後の句は「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と言う句であった。この句は、「奥の細道」の結句として申し分ない。だから、矢立ての句は、「行く秋」に合わせて、「行く春」で行こうと、芭蕉はあれこれ呻吟し「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句に、切り替えたのである。  芭蕉が見た「魚の目は泪」は、実は送別の宴会場で、配膳にあがった白魚で、この季節、隅田川の風物である。白魚は生きたままか、死んだばかりの状態でなければ食することは出来ない。すぐに痛んでしまう繊細な食材である。当時、冷蔵庫も冷凍装置も存在しないから、現地千住でなくては食することの出来ない、食の極致が白魚であった。その小さなかわいい白魚の、そのまた小さなかわいい目に、なぜか芭蕉は注目するのである。そこには小さなかわいい春が凝縮され、小さいかわいい生の営みが凝縮されている。畢竟、「魚の目は泪」とは、小さなかわいい春と生の営みとに流す俳人芭蕉の泪なのである。それがこの句の俳趣となっている。最初の句「鮎の子の白魚送る別れかな」でも芭蕉は自分を白魚と感じていた。  中句「鳥啼き」が春の絢爛豪華で広大な世界を描くのに対し、下句「魚の目は泪」は、小さくかわいいながらも、確実に存在する微細な春の生の営みを紹介するとともに、そういうかわいい生き物を食しないでは生きていられない人の悲しい性をも描く。時代はまさに綱吉の生類憐れみ令の時代である。   冠辞は長い時間を、中句は広大な空間を、そして下句は微細な生の営みをと、三句三様の風景はいずれも趣き深く、味わい深い。この句を創作し得た時、芭蕉はうち震えるような感動を覚えたに違いない。同様に、この句を鑑賞すrう読者も、芭蕉と同等の感動を共有し得ない限り、とても芭蕉の句を味わったことにはならない。