2014年11月13日木曜日

アルプス

昨日アルプス空中散歩のテレビをみた。
マッターホルンの狭い頂上に二人の登山者がいて、ヘリコプタに手を振っている。
見ているほうが怖くなるようなシーンだった。
40代でユングフラウに登ったときは、雲の中で視界ゼロだった。
50代でマッターホルンに登ったときは、晴天で絶景であった。
といっても、観光電車とケーブルカーでの登山だが、アルプス登山は、好天の確率は半分以下という。
ユングフラウに2回登って、いずれも雲海のなかだったという友人もいたし、マッターホルンに惚れ込んで、4回でかけたと言う知人もいる。
今はもうテレビ観光だけの年齢になってしまった。



ユングフラウ

マッターホルン


2014年11月11日火曜日

長楽館

昨夜のテレビ「極上の京都」で長楽館が紹介された。
その昔何かの会合で会食した記憶はあるが、当時は建物の歴史など全く知らなかった。
100年以上前、タバコで財をなした人物の迎賓館としてスタートし、その跡を土手家が買い取って再興したという。
長楽館の建つ東山の一角は、京都のなかでも四季の移り変わりを実感できる風光明媚なエリアで、隣接する円山公園の桜や紅葉を見渡せるだけでなく,清水寺、高台寺、知恩院といった京の名所にも散策をかねて訪ねられる場所だ。
もう一度訪ねたいと思った。
長楽館二階からの展望

2014年11月6日木曜日

野口英世の評価

戦前私の小学生時代は「修身」のお手本のような人物だった野口英世だが、戦後の評価はいまいちである。
ノーベル賞に今一歩だったという評価も一部にはあるが、戦後の学会では評価が低く、医科大学の講義では野口の名前は出てこないという。
彼の多くの研究成果のうち、ミスがいくつか解かってしまったかららしい。
その理由(1)
1911年(明治44年)8月に、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなる。
しかし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功したものがいない。
 試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている。
最近のSTAF細胞研究のような問題らしい。
その理由(2)
1918年ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される.
 野口に黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後には病原体を特定することに成功し、これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。
この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。
しかし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。
後年アフリカの研究で、野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている。
彼の研究は光学顕微鏡による時代で、まだウイルスを検出できる電子顕微鏡のない時代だったから、研究ミスも仕方が無かったのだろう。
1928年1月2日 - 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院するが、回復して退院。(結果的には、このときは黄熱病ではなかった。)
5月13日 - 再度同様の症状を発症し、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。野口ワクチンを使用するが回復せず、5月21日 - 昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。
野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)
渡辺淳一は、大学の講義で野口の名前がでなかったことに疑問を感じ、後に野口の伝記小説[遠き落日」をかき、野口英世の生涯をえがいた。
偉人としての野口英世ではなく「人間・野口英世」の内面にせまった。多くの伝記で取り上げることが憚れていた野口の研究ミスや借金癖や浪費癖などの否定的な側面も臆さず描き出し、かれの評価の再確認を行っている。

研究室の野口英世
かれの肖像が1000円札に採用されたのは、評価が低いというこただろう。他の理由には、もじゃもじゃ頭の髪の毛が偽造されにくいということがあげられたそうだ。
今日のテレビでは、野口の生まれ故郷の福島県の猪苗代町が、野口英世の縁で、ガーナ共和国の東京オリンピック時〔2020年)のキャンプ地に選ばれたことを伝えていた。
外国での評価のほうが高いのかもしれない。

2014年11月4日火曜日

吉良上野介と赤馬

昨日のテレビで、吉良上野介の領有地だった吉良町の紹介があった。
忠臣蔵の「悪役」として有名な上野介の評価は芳しくないが、領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、地元では慕われていると言われてきた。

吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされる。
(しかし、吉良家のような旗本は、一部の例外を除けば参勤交代がない定府であり、江戸に常住して領地は幕府が任命した代官に任せるのが一般的である。そのため、義央も領地を殆ど訪れた形跡はなく、領民に接する機会は無かったと思われる。黄金堤も、元禄よりも前に作られていたことが判明しているという.)

2014年11月1日土曜日

宇宙事故の続発

1)米バージニア(Virginia)州ワロップス島(Wallops Island)で10月28日、国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)に物資を送る米宇宙企業オービタル・サイエンシズ(Orbital Sciences)の無人補給機「シグナス(Cygnus)」を載せたロケットが、打ち上げ6秒後に爆発した。
2)米ヴァージン・ギャラクティックの宇宙旅客機「SpaceShipTwo」が10月31日(現地時間)、米カルフォルニア州でのテスト飛行中に墜落し、パイロット2名のうち1名が命を落とした。もう1名はパラシュートを使って脱出し、現地の病院で手当を受けているという。
アメリカ!どうした?

2014年10月25日土曜日

行動経済学と二宮金次郎

今日は北九州大学神山教授の「行動経済学」の話を聞いた。
経済は勘定ではなく、感情で動いていると考える学問だという。
人間は脳の二つの基本システム(感情と理性)の「せめぎあい」から行動する。
理性をベースとした社会規範と、感情をベースとした市場規範のバランスで経済活動は行われているが、心理学の知見や脳科学実験などを取り入れて、経済の動きを解明する。
具体的な心理事例としては次のような断片的な紹介があった。
事例1:アンカリング
  事前に知らされた情報に惑わされる。その数値より、少ない数値だと安いという心理がはたらく。
事例2:利益分配
  8:2では絶対反対だが、6:4なら妥協する。(統計的事例)
事例3:決断の環境
  直接の行動や対話では感情が強く働くが、メールなどでの間接的対話では理性が強くなる。
事例4:現状維持優先
  勝ちより負け、利益より損失のほうが心理的インパクトが大きい。損失の少ないほうを選択する。
事例5:過去・歴史の後付
  勝者側の後付説明が多く、そのアンカリングに流されやすいが、敗者側の事実や心理も解明する必要がある。
昨日たまたま二宮金次郎のテレビ番組をみた。彼の道徳論だけが世の中に流布しているが、農村改革業績には、農民心理を巧みに取り入れた報徳の制度があった。
桜町改革の報徳生活は「勤労、分度、推譲」の三原則を基本としたが、5年の期限つきで無税のアンカリングを与えた。
【勤労】は生活の基本であり自助努力の大原則だが、同時に知恵を働かせて労働を効率化し、社会に役立つ成果を生み出すという自覚と意欲を重視している。
【分度】は経済的には、収入の枠内で一定の余剰を残しながら支出を図る生活。経営の確立、計画経済の基本だが、この余剰が、明日の、来年のそして未来の生活、生産の発展と永安のための基礎資源となる希望をもたせた。
【推譲】は、分度生活の中から生み出した余剰、余力の一部を、各人が分に応じて拠出する。これが報徳資金になり、相互扶助、公共資本あるいは弱者、困窮者救済に宛てられ、家政再建、町村復興、国づくりに拡がっていった。
尊徳は桜町領復興に当たり、小田原の田畑家屋敷、家財を全て売り払い、それを仕法の資金として推譲したという。
日本は明治維新以降、欧米の合理主義経済を吸収したが、偏重して利益第一主義を推し進め、「大量生産、大量消費、大量廃棄」を生み、「モラルよりモノ・金」を優先させることになり、多くの問題(資源の浪費、食料自給率の低下、環境破壊、家庭・地域の軽視、企業の犯罪等)を発生させることになっている。
市場規範一辺倒もだめ、社会規範一辺倒でもだめ、両者がバランスよく一体となった社会でなければならない。
この一元化を説いた二宮尊徳の思想が再評価され、行動経済学として発展する機運が高まっている。

2014年10月14日火曜日

日本のオリンピック参加

東京オリンピック50年でテレビ番組が多いが、残念なが東京まで出かけて観戦する余裕が当時はなかった。
テレビやラジオで見聞しただけで、あとで会社の幹部が観戦して撮影してこられた8ミリ映画をみなで見せてもらったたりした。
実行委員会の委員長だった安川第五郎氏の開会式のスピーチを、ご本人は完全録音をもらっていないということだったので、私がソニーの録音テープで全部録音していたものを届けて、喜ばれたことが唯一の直接関係した貢献であった。
当時のスポーツ雑誌特集号2冊を買って保存している。これを読み直してみると、日本がオリンピックに初めて参加した1912年のストックホルム大会(第5回)の記事に感銘をうけた。
オリンピックを世界的な運動にするため、クーベルタンはアジヤにも参加をよびかけた。日本の文部省はさっぱり関心を見せないので、日本のスポーツ教育推進を志していた嘉納治五郎がIOC委員となり、また大日本体育協会をつくって、資金集めに奔走したり、国内競技の予選会を行ったりした。
結局短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2選手が参加したが、世界レベルとの差が大きく、三島選手は100m、200mで予選落ち、400m準決勝で棄権、金栗選手は18Kmで落伍の結果におわった。
このときの参加国は27ヶ国にすぎなかったが、第11回のベルリン大会では49ヶ国の参加と、漸増していった。
日本でもこの参加以後世界のスポーツへの関心がたかまり、(第6回ベルリン大会は世界1次大戦で流れたが、)第7回アントワープ大会には15人の選手を派遣をするようになった。
嘉納治五郎といえば講道館の柔道だけを思い出すが、日本のスポーツ振興の推進者だったことを再認識した。 

2014年10月13日月曜日

新幹線50年

昨日、東京オリンピック50年の番組とセットで、新幹線50年の番組がながれていた。
再放送もので、H10と12年に放映されたものらしいが、当時は見てなかったので、興味深くみた。
新幹線プロジェクトの提案技術者として、車体の形状設計の三木氏、ATCのシステム開発の河辺氏、高速車両の横揺れ振動防止のため空気バネを開発された松平精氏の3人が登場した。
特に松平氏とは生前に数年間仕事で交際があったので、懐かしい姿であった。
松平氏は戦前は零戦の開発で有名な技術者で、戦後は国鉄総合研究所で、新幹線プロゼクトリーダ役であったし、晩年はIHIの研究所長であった。
国東半島の杵築城主の末裔で、背が高く古武士然たる風格は威厳に満ちていた。
ラストシ-ンの後ろ姿はさすがに少し背中が少し丸くなっていたが、H10年の放映のあと亡くなられたようだ。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/sinkansen/zerosen.htm
息子も幼稚園生ではじめて東京ー京都間を新幹線に乗った時のことを思い出して、懐かしがっていた。

2014年10月5日日曜日

活火山の見分け

御嶽山で大きな災害がおきて、活火山の話がマスコミに沢山登場している。
小学校の修学旅行ではじめて阿蘇山に登ったときの緊張感を思い出す。
当時学校で教えられた国内の火山は、千島火山帯、那須火山帯、鳥海火山帯、富士火山帯(富士箱根火山帯、富士箱根伊豆火山帯)、乗鞍火山帯、白山火山帯(大山火山帯)、霧島火山帯の7つの火山帯(火山脈)で、北部九州は白山火山帯の中にあると教わったが、今はあまりこの名前は聞かなくなった。
今日、中学時代の教科書をひらいてみたら、白山火山脈と記載されている。
白山は石川県にあり少し距離が離れすぎるし、せめて大山火山脈と呼ぶほうが良いと思っていたが、最近の研究では、これが構造的に東日本と西日本に別けられているようだ。
昔学校で習ったのは単なる地理的な区分であって、その後、個別の火山の岩石学的研究が進み、さらにプレートテクトニクスの研究が進んで、プレートの沈み込みに伴うマグマ発生・上昇・火山形成過程が明らかになってくると、火山学上はこのように細かく分ける意味がなく、逆に形成過程のまったく異なる火山を同一の火山帯に区分していた場合もあることがわかったからだ。
現在では日本の火山を火山帯に区分する場合、プレートテクトニクス理論に基づき、太平洋プレートの沈み込みに起因するものを東日本火山帯、フィリピン海プレートの沈み込みに起因するものを西日本火山帯と呼ぶそうだ。
この二つの火山帯は、太平洋内の日本海溝および南海トラフと平行している。
上記の古い火山帯区分で言うと、白山火山帯(大山火山帯)は狭義の白山火山帯(中部・北陸地方)と狭義の大山火山帯(中国地方)に分けられ、千島火山帯から狭義の白山火山帯までが東日本火山帯、狭義の大山火山帯から霧島火山帯までが西日本火山帯になる。
御嶽山は東日本火山帯がくの字に折れる曲がり角にある。
プレートが移動しているので、火山も当然移動するから、火山帯を火山前線(火山フロント)とよんでいる場合もある。

2014年9月19日金曜日

天神の極楽寺

明治時代中期の古地図に、極楽寺の名前が今の天神地区に記載されている。その近くに勝立寺の名前もあり、こちらは現存している。
極楽寺は浄土宗で名島あった寺だが、黒田長政が福岡城を築いた慶長6年に名島からここに移し、その時の住持天与上人をこの寺の開山とした。
二代藩主忠之の妹が亡くなった時はこの寺に位牌を安置して、寺座50石を寄付したという。
明治中期までは、寺内は墓地をふくめて1300余坪の広さだったが、明治末期の電車開通で敷地は半減した。
戦災のあとに仮の寺院が建てられたが、戦後の再開発の時期に寺は南区若久に移転し、その跡地に建ったのがショッパーズブラザ・ダイエイとマツヤレディスである。
若久の寺

2014年8月8日金曜日

信長の負け戦

台風と大雨が続く気象の季節で、信長の負け戦が思い出される。
信長が斉藤龍興に木曽川河野島で大敗を喫する。(永禄九年(1566)閏8月8日)
 永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで大敵今川義元を討ち取って勢いに乗った織田信長は、次なる攻撃目標を美濃の斎藤氏に定める。
 信長は居城を清洲城(愛知県清須市)から小牧山(同小牧市)へ移し、同五年に信長と対立して斎藤氏に通じていた織田信清の犬山城(同犬山市)を攻め落とす。
同八年には東美濃の宇留摩(鵜沼)・猿啄両城を木下秀吉・河尻秀隆らの活躍で攻略し、続いて堂洞・加治田・関の各城も調略や力攻めで奪う。
 それまで信長は斎藤氏の前に苦戦していたが、龍興の代になると求心力が次第に低下、前年には竹中半兵衛重治が稲葉山城を一時乗っ取る事件も起き、麾下の国人衆は龍興に見切りを付ける者が出始めてた。
 永禄九年の八月二十九日、信長は木曽川を渡って美濃へ侵入、河野島(岐阜県岐南町周辺)へ兵を進めると、龍興も稲葉山城を出て境川を隔てて対峙した。
 ところが激しい風雨に見舞われて川が増水し、木曽川を背にした信長勢は戦うことも退くこともままならない状態となり、ようやく風雨が収まって水が引き始めた。
 この日、斎藤勢が総攻撃を仕掛けました。信長勢は果敢に応戦したが、背後に木曽川があるため軍の後退が出来ず苦戦、一部の兵は兵具を捨てて木曽川へ入り逃げようとしたが、渡り切れずに流されて溺死する者が続出、前代未聞の大敗を喫した。

2014年7月26日土曜日

クレーマー・クレーマー

有名な映画だが、子供主役のお涙頂戴のドラマと思っていた。
昨日はじめて全巻をみて、中身の濃いのに感心した。
男性の仕事がらみの対話、女性の空しい心情、裁判での弁護士たちの論点など。
家庭内の調理場面やWC場面などの伏線もよく出来ていた。
とくにラストシーンが見事な出来だった。

2014年5月30日金曜日

与力

集団自衛権の論議がさかんになっている。紛争の事例を分類して整理し、公文書化しておくことが行われている。
その中で「駆けつけ警護」の用語があり、解説 では「PKOで活動中の自衛隊が、他国軍やNGOなどの民間人が危険にさらされた場所に駆けつけ、武器を使って助けること」。という。
その昔、与力という言葉は江戸時代の町奉行の役人の名前であったが、その語源は「寄騎」という言葉で、戦が起こりそうな場所に寄り集まってきた武士集団の名称で、駆けつけ部隊のことであったという。
戦の歴史は繰り返すものだ。

2014年5月26日月曜日

1次世界大戦のモラル

先週見た映画は1937(昭和11)年の 仏映画 モノクロ DVD:113分  
「大いなる幻影」
   監督;ジャン・ルノワール     (印象派の巨匠オーギュスト・ルノワールの次男で「どん底」「獣人」「河」などの名作がある)
  出演;ジャン・ギャバン/ピエール・フレネー/エリック・V・シュトロハイム 

第一次世界大戦のさなか、ドイツ軍の捕虜となった、さまざまな階級の人間が集う収容所での物語。
2次世界大戦ではヒットラーによる殺戮が横行するが、1次世界大戦では、戦争がまだ紳士的であった時代の残り香が漂うヒューマンドラマの傑作だ。
やがて脱走計画が企てられるが・・・・・最後はかろうじてスイス領に逃げこもんだ兵士を、幸運なやつらだと,ドイツ兵は射撃しない。

主演格のジャン・ギャバンも未だ若く、33年あたりから注目され始め、35年の「地の果てを行く」で人気が出始め、「どん底」、「望郷」、そしてこの「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露しスターとなった。

他にも馬具出土?

24日の玄界塾で船原古墳付近から出土した馬具について、朝日新聞社の馬郡シニア記者の講演会がひらかれた。
内容は新聞やテレビで報道されたことの域をでなかった。
質疑のなかで、古老が昭和28年ころ 古賀市花見地区の工事現場で馬具が発見されたことがあるという話をされた。
当時は調査態勢が不十分で、現物も記録も残っていないようだということである。
古墳調査の資料が公開されているのは昭和45~50年代からで、その20年前は残念ながら闇のなかだ。

2014年5月20日火曜日

安岡章太郎

 昨日のラジオで安岡章太郎の[流離譚]という小説の紹介を聞いた。

 彼の先祖である幕末の安岡文助に嘉助、覚之助、道太郎という3人の子どもがおり、嘉助は土佐勤王党に参加、土佐藩参政、吉田東洋を斬り、脱藩上京。吉村寅太郎の天誅組に参加、十津川で敗れ、捕えられて京都で打ち首になる。
 覚之助は嘉助と同じく土佐勤王党に入るが、本家の養子になり、戊辰戦争、会津攻めに参加して、会津城下で流れ弾に当たり、戦死する。
 道太郎は幕末を生き延び、植木枝盛たちと自由民権運動に参加し、大衆的な運動を担う。
 本家の覚之助の子孫が、維新後土佐を離れて東北に移住した理由を、この安岡家の子孫にあたる安岡章太郎氏が時代背景を追いながら調べていくという内容になっている。
 歴史小説というよりは、ノンフィクションといっていいと思う。
数年前のNHK大河でラマ「龍馬伝」を興味を持ってみていたが、安岡家と坂本龍馬、板垣退助、武市半平太、など、幕末明治の有名人との関わりがあったとはしらなかった。。  

2014年5月15日木曜日

火山災害

昨日は池上彰の解説で、火山災害の3時間番組が放映された。

ポンペイ遺跡は昔、見学したことがあるので、その復習のつもりで見ていたが、ヴェスビオ火山の大噴火で、その南のポンペイだけでなく、西のへリクラネイムや北のソンマレスチアーム?など埋没していた都市が最近発掘されていることを知って驚いた。

大噴火だから周辺を探せばまだ他にも埋没している都市が存在している可能性があるだろうという。

火山国日本人はソレントやアマルフィなど絶景の観光地だけを堪能しては居れない。

九州は北と南の島が、阿蘇の大噴火でつながったという。
今回の熊本地震で、おおきな災害が発生しているが、その産物で、古代遺跡の発見にでもつながれば、せめてもの幸いであるのだが。

2014年5月12日月曜日

サヘル・ローズ

今日の「ようこそ先輩」で、母校のこども達に、マイナスをプラスに代える発想を教えていたタレントのサヘル。その人生は波乱万丈だった。
イラン西部、クルディスタンにある小さな町に生まれる。幼少時代の微かな記憶に、よその家の養子になる話が出たものの、結局実現せずそのまま両親と共に暮らすことになったという出来事がある。
イラン・イラク戦争で生家が空爆に遭い、両親と10人いた兄姉をすべて亡くし、倒壊した家の瓦礫の中から4日後にひとり救助された。その後、孤児になり暫く孤児院で暮らす。このため本当の出生名は明らかではなく、現在の本名は後につけられたものである。また1985年生まれというのも後に付けられた誕生年であり、実際のところは86年,84年かもしれないという。
やがて、当時大学生でボランティアの救助活動を行って瓦礫の中からサヘルを発見したフローラ・ジャスミンが、孤児院に収容されたサヘルを見舞った際に幼いサヘルが自分を「お母さん」と呼び慕ったことから、サヘルを引き取ることを決意する。しかし非常に高い身分であったフローラの実家が、孤児であるサヘルを養育することを「家柄に傷がつく」として猛反対、やがて経済援助を打ち切られた。
その後2人は、フローラのフィアンセであったイラン人男性を頼って8歳のとき日本に移住した。しかしその男性とフローラの生活が上手くいかずに別れると、フローラに職が無かったため赤貧の生活を余儀なくされた。通っていた小学校の給食しか食べるものがなかった時期に、フローラは給食の調理師と親しくなり生活のサポートを受け、次いでサヘルは校長による補習授業で日本語を学ぶ。小学校、中学校時代にはいじめも受けている。
彼女の講義をうけた後輩の生徒も、韓国人でいじめられた子や父が家出して苦労した子などが、プラス思考の事例を紹介していた。

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう) 黒田如水一族は目薬売りで蓄財したという。幕末・明治時代にも目薬で実業界にでた人物がいたという話をきのうラジオで聞いた。岸田 吟香(きしだ ぎんこう)。1833年6月15日「(天保4年旧暦4月28日)生まれ。 美作国久米北条郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」(せいきすい)を販売するなどして、薬業界の大立者としても知られるようになる。中国大陸では薬売りに情報収集を依頼して薬は無料で提供していたという。黒田一族と同じ手法を用いていたようだ。若い頃は日本の新聞記者の奔りで、東京日日新聞の主筆をつとめた経験があり、情報の重要さを知った男だったようだ。晩年は教育事業家としても貢献したようだ。明治38年(1905年)6月7日没。

2014年5月7日水曜日

行く春や

松尾芭蕉の俳諧紀行文、「奥の細道」『旅立ち』の矢立ての句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はちょうど今頃の季節の句だが、その句解は素人には難解な句だ。鳥と魚の組み合わせを古い漢詩や和歌との関連で解釈する人も多いようだ。いろんな説があるが、今日次のようなやや納得のいく解釈をみつけた。 「奥の細道」の最初の句だが、矢立ては芭蕉は一応千住の送別会で、「鮎の子の白魚送る別れかな」と言う秀句を捻出した。けれども半年に及ぶ「奥の細道」の旅がようやく終焉しようとした時、最後の句は「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と言う句であった。この句は、「奥の細道」の結句として申し分ない。だから、矢立ての句は、「行く秋」に合わせて、「行く春」で行こうと、芭蕉はあれこれ呻吟し「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句に、切り替えたのである。  芭蕉が見た「魚の目は泪」は、実は送別の宴会場で、配膳にあがった白魚で、この季節、隅田川の風物である。白魚は生きたままか、死んだばかりの状態でなければ食することは出来ない。すぐに痛んでしまう繊細な食材である。当時、冷蔵庫も冷凍装置も存在しないから、現地千住でなくては食することの出来ない、食の極致が白魚であった。その小さなかわいい白魚の、そのまた小さなかわいい目に、なぜか芭蕉は注目するのである。そこには小さなかわいい春が凝縮され、小さいかわいい生の営みが凝縮されている。畢竟、「魚の目は泪」とは、小さなかわいい春と生の営みとに流す俳人芭蕉の泪なのである。それがこの句の俳趣となっている。最初の句「鮎の子の白魚送る別れかな」でも芭蕉は自分を白魚と感じていた。  中句「鳥啼き」が春の絢爛豪華で広大な世界を描くのに対し、下句「魚の目は泪」は、小さくかわいいながらも、確実に存在する微細な春の生の営みを紹介するとともに、そういうかわいい生き物を食しないでは生きていられない人の悲しい性をも描く。時代はまさに綱吉の生類憐れみ令の時代である。   冠辞は長い時間を、中句は広大な空間を、そして下句は微細な生の営みをと、三句三様の風景はいずれも趣き深く、味わい深い。この句を創作し得た時、芭蕉はうち震えるような感動を覚えたに違いない。同様に、この句を鑑賞すrう読者も、芭蕉と同等の感動を共有し得ない限り、とても芭蕉の句を味わったことにはならない。     

2014年4月26日土曜日

考古学の格差

日本の考古学では約2000年前の卑弥呼の墓や師王の墓が九州か吉備か 大和かと論議されているが、確証は何一つ解かっていない。今日のEテレで は3300年前の古代エジプトの若い王、ツタンカーメンの歴史番組があった。(再放送らしい)。19才の若さで亡くなったとされるミイラを最新技術を駆使した調査により、ツタンカーメンの両親、祖父などが、ミイラのDNA解析によって次々に判明した。調査の過程を密着取材し、再現映像を交えて、ツタンカーメンが生きた古代エジプトの世界を明確に伝えていた。日本の考古学との格差を痛感させられた。

2014年4月23日水曜日

歴史は繰り返す

韓国南西部珍島(チンド)沖で沈没した旅客船「セウォル号」の事故原因は、急旋回したことで過積載の積み荷が荷崩れし、転覆に至ったとの見方が有力だ.しかしこの海域では宋・元時代の貿易船沈没事故などがあり、当時の日本に運ばれる商品が沢山発見された場所である。1975年に全羅南道新安道徳沖海底より、中国の宋・元代の陶磁器が地元漁師のえび網から偶然に引き揚げられた。1976年に、韓国海軍潜水チームの協力を得て調査したところ、大量の陶磁器を積んだ船が発見された。その後の発掘調査で船荷の中から日本の「東福寺」の木簡が発見され、当沈船が14世紀はじめに、中国の寧波、高麗、日本の博多の三国間を航路とする中国元代の貿易船であると推定された。高麗青磁を含む何万点もの学術的に価値の高い陶磁器類などの引き揚げにより、一躍世界の脚光をあびることになったのは周知のとおりである。1983~1984年に、同じ韓国南西部の莞島海域で今度は朝鮮の伝統的建造方法を使った貿易船が出土した。この貿易船は、海南地方窯産の30,000点以上におよぶ青磁から11世紀中・後半頃活躍した船と推定され、この船が古来より朝鮮に伝わる伝統的な造船技術、船体構造を知る上で極めて重要な発見となった。潮流が早く回避すべき暗礁などが多い危険な場所だったことは昔からだったらしい。

2014年4月22日火曜日

田園シンフォニー

九州の観光列車といえば七星が有名だが、人吉から湯前までのくま川鉄道にも観光列車が走っているそうだ。田園シンフォニーと名づけられて、ゆっくり田園風景を眺めながら走るのがテレビで紹介された。その中間の駅「あさぎり」で地元の人のおもてなしが行われていた。あさぎりの名前でふと先月の鳥インフルエンザの被害のニュースを思い出したが、この番組では全くふれられなかった。古い地図にはあさぎり町はみあたらないが、2003年4月1日 に 球磨郡上村、免田町、岡原村、須恵村、深田村の5町村が対等合併し、あさぎり町が発足した。町名の由来は秋から春にかけて球磨盆地にしばしば発生する朝霧からという。この街道は西南戦争で西郷軍が人吉から延岡に逃れるとき通った道で、付近の人は西郷札の被害にあった可能性もある。田園シンフォニーで、これらの被害がとりもどせたら幸いだ。

2014年4月18日金曜日

STAPとは?(追記)

2014・4・18
理研の笹井氏の会見は多くのテレビ局が報道した。
STAP細胞とよばれるものが存在するのか?という疑問に対して、STAP現象といえる有力な仮説が成り立つというような説明であった。
専門外のものにはさっぱり解からないが、万能細胞に近いものが、できる可能性が少しは残されているようだ。
厳しい評論家はSTAP現象ではなく、STAP幻想だと言っていた。当初言われたように簡単に万能細胞ができる可能性はなさそうだ。
しかし細胞の突然変異という言葉があるように細胞とはまだまだ不可思議な現象の多い世界だ。
あらためて最初から一貫した研究をやりなおしてもらいたい。
野口英雄だって間違った発表をしたことがある世界だ。

2016・5・14

今年3月10日、ドイツの名門大学、ハイデルベルク大学の研究グループがSTAP関連の論文を発表した。その情報の概要は次の通り。
<小保方氏が発見したSTAP現象を、がん細胞の一種であるJurkatT細胞を用いて再現実験を試みた。
同細胞に対しては、小保方氏がネイチャーで発表した細胞に酸性ストレスをかける方法ではうまくいかなかった。
ハイデルベルク大学の研究グループは、独自に修正した酸性ストレスをかける方法を試してみたところ、細胞が多能性(体のどんな細胞になれる能力)を示す反応を確認した。
それと同時に細胞が死んでしまう現象も確認された。
今後、何が細胞の運命を分けているのかを探っていきたい>


 日本の一部の専門家は、小保方氏がSTAP細胞のレシピ(詳細な作製手順)を公表するサイト「STAP HOPE PAGE」を開設した際にも、「STAPを今さら研究する研究者は世界にどこにもいない」と批判していたが、それが完全な間違いであったことが証明された。
 ネイチャーのSTAP論文が撤回された理由は、小保方氏が発見した「STAP現象」の否定ではなかった。

 小保方氏の人権を蹂躙するかのようなマスコミがつくり上げた世論に同調し、常識を逸脱した禁じ手まで使って論文をなきものとして責任逃れをした理研や早稲田大学と比べ、真摯に生物学的現象を追究するハイデルベルク大学のニュートラルな姿勢は、科学に向き合う本来のあり方を教えてくれる。

 ハイデルベルク大学が発表した今回の論文によって、STAP現象に対する世界的な関心が再び高まっていくかもしれない。

2014年4月10日木曜日

リケジョ裁判

小保方リケジョの会見が昨日今日と各テレビ局のニュース番組のメインになっている。STAP細胞の有無よりも論文作成のミスが主題で、共著者に不正がなく、リケジョだけを罰するというおかしな展開だ。 バイオの世界の門外漢には解からないことばかりだが、リケジョの孫もいることで、少し気になる事件である。 リケジョは研究室をわたり歩くしかなかったという研究組織のありかた。キューリ夫人の伝記でも男女差の苦労が記されているが、現代でもまだ組織のなかでの差別が存在していることがこの事件はしめしている。 200回もつくったことがあるというSTAP細胞が保存されていないのか?ノートの数ばかりいう故老の審査員だが、計測器やパソコンの記録などに保存されていないのか?第三者も成功したという確証があるのならば、しっかり証明できないのか?共著者が疑問をもちはじめた経緯などの会見をはっきりと2時間かけて発表してくれないか?ハーバード大学の教授のコメントが伝えられないのは何故だろうか?頼りない弁護士だったが今後の取り組みは大丈夫だろうか?次のノーベル賞を期待る応援団の気持ち。

2014年4月7日月曜日

三陸の地名

三陸鉄道復旧のニュースはうれしい。三陸の名前は三陸地震でもっとも良く使われる。明治元年12月7日(1869年1月19日)、奥羽越列藩同盟諸藩に対する戊辰戦争の戦後処理が行われた際に、陸奥国と出羽国は分割され、陸奥国(むつ)は陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国・磐城国に5分割された。このとき生まれた令制国名に「陸」がついている陸前・陸中・陸奥の3国を「三陸」(または陸州)と総称するようになった。しかし「三陸」は、明治中期まで行政地名として使われるのみで一般にはほとんど知られておらず、明治29年(1896年)の明治三陸地震の報道によって一般に広まった。越前、越中、越後のように歴史のある地名ではない。奥の細道と軍艦陸奥の名前だけは有名だった。今の東北地方は私の小学生時代の教科書では奥羽地方と呼ばれていた。

2014年4月6日日曜日

フィレンチェラビレンス

昨夜のBSドラマは久しぶりに面白かった。 ノンフィクションライターの杏が、500年前の彫刻家デジデリオの血をひくと言われて、その作品を調べにフィレンチェにでかける。デジデリオが作った著名な司教の墓の謎をとくまでのプロセス。前半は緩やかな展開でフィレンチェの街案内が展開するが、後半は急テンポで謎への解明にせまる。2時間ものを久しぶりに楽しんだ。ただ占い師との関係はあいまいなままだった。